季節のかすてら噺 平成19年夏号
荷風、カステラに出会う。
イラスト1 夏の長崎の西の海が、赤く染まります。
「自分は海に沈むすさまじい夕陽の色に酔つた。岬の岩角を噛む恐しい波の牙を見た」
明治四十四年八月。三十二歳の永井荷風は『海洋の旅』にこう書きつづります。五年間の米欧留学から帰国、『ふらんす物語』で新鋭作家の栄光を獲得した若き荷風でしたが、明治という古い時代とのたたかいはきつく、疲れ切った旅人を、長崎はやわらかく包んでくれたのでした。滞在二週間。
「極めて綺麗な、物静かな都であつた。石道と土塀と古寺と墓地と大木の多い街であつた。花の多い街であつた」
そして夕暮れ、縺れ合う鐘の余韻がささやきかけるのでした。
「お前は何故もつと早く此処へ来なかつたのだ」
――三十年の月日が流れます。暗い残酷な時代、六十歳代に入った小説家は戦争の渦から逃れ、貝が殻を閉じたように孤独の世界に生きていました。日記だけが慰めです。 イラスト2

夕刻、日課のように通う新橋駅裏の小料理屋金兵衛でも米がない、酒がない、炭もないので魚が焼けず、煮物ばかり。五月のそんなある夜、雨のなかを店に物売りがやって来る。
「物売の老婆来りカステラの巻きたるを出し一本七円五十銭なりと言へり」。荷風は日記にそうしるします。
外出の際は風呂敷と一緒にかならず持ち歩いている重箱に、カステラの明るい黄の色は似合ったでしょうか。長崎の鐘のささやきが、そのとき、遠く聞こえなかったでしょうか。
日本に平和がよみがえる二年前の小さなできごとです。
(A)
イラスト3


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