大浦天主堂を設計したフランス人宣教師プチジャンは、文久3年(1863)、まだ禁教令の残る長崎を訪れました。殉教した26聖人を祀り、在留外国人のための教会として建設された大浦天主堂でしたが、その風変わりな異国風の外観を見た長崎の人々からは「フランス寺」と呼ばれていました。
1865年、天主堂が完成し、献堂式が行われて間もない1865年3月17日(元治2年2月20日)のこと。聖堂で祈りを捧げていたプチジャン神父のもとを、ひっそりと数人の男女が訪れました。
「あなたたちは、どなたです?」不思議に思った神父に、彼らの一人が突然ささやきかけました。「サンタ・マリアの御像はいずこに?‥‥‥私たちは、あなたと同じ胸を持つ者です」
神父は驚きました。1614年の大禁教令から、布教が途絶えて250年あまり。既にキリシタンは絶えてしまったと思われていた日本の地に、長い長い間、一人の神父も居ないまま、厳しい迫害と弾圧を逃れて潜伏し、教義を守り続けてきた教徒たちがいたのです。
「ああ、本当に、マリア様だ!」神父に導かれ、祭壇に案内された彼らは、祈り敬い続けた長い年月、初めて見る聖母像の前で歓喜の声をあげました。