ながさき暦
古来、異国との交流の盛んであった長崎
ながさき暦 其の五 「私たちはあなたと同じ胸を持つ者。サンタ・マリアの御像はいずこに?」長崎に起こったキリシタン復活のドラマ

今日も大勢の観光客で賑わいを見せる長崎市、南山手地区。かつての外国人居留地(きょりゅうち)であったこの場所に、凛々しくそびえる白亜の教会が大浦天主堂。多くの修学旅行生も訪れる人気のスポットですが、この教会にかつて起こった、劇的なドラマをご存知でしょうか。

時は500年も昔、豊臣秀吉による「伴天連(バテレン)追放令」に始まり、江戸幕府が開かれてからも幕府の天領(直轄地)であった長崎では、禁教令による厳しい取り締まりが行われ、多くのキリシタン達が追放され、また凄絶(せいぜつ)な殉教を遂げていきました。
こうしてキリシタンの布教が途絶え、教徒達の信仰の道が閉ざされて250年。安政5年(1858)から6年にかけてアメリカを始めとする諸外国と結んだ通商条約によって鎖国が解かれると、諸外国の圧力により踏絵は廃止、聖堂建立が認められ、長い禁教の時代が終わりを告げました。


大浦天主堂

信徒発見のマリア像

信徒発見のマリア像

大浦天主堂を設計したフランス人宣教師プチジャンは、文久3年(1863)、まだ禁教令の残る長崎を訪れました。殉教した26聖人を祀り、在留外国人のための教会として建設された大浦天主堂でしたが、その風変わりな異国風の外観を見た長崎の人々からは「フランス寺」と呼ばれていました。

1865年、天主堂が完成し、献堂式が行われて間もない1865年3月17日(元治2年2月20日)のこと。聖堂で祈りを捧げていたプチジャン神父のもとを、ひっそりと数人の男女が訪れました。
「あなたたちは、どなたです?」不思議に思った神父に、彼らの一人が突然ささやきかけました。「サンタ・マリアの御像はいずこに?‥‥‥私たちは、あなたと同じ胸を持つ者です」

神父は驚きました。1614年の大禁教令から、布教が途絶えて250年あまり。既にキリシタンは絶えてしまったと思われていた日本の地に、長い長い間、一人の神父も居ないまま、厳しい迫害と弾圧を逃れて潜伏し、教義を守り続けてきた教徒たちがいたのです。
「ああ、本当に、マリア様だ!」神父に導かれ、祭壇に案内された彼らは、祈り敬い続けた長い年月、初めて見る聖母像の前で歓喜の声をあげました。


2世紀半にも渡って潜伏し続けてきたキリシタン達が、宣教師のもとへ戻ったこの出来事は、史上例を見ない出来事として注目され、「キリシタンの復活」として世界中に知れ渡りました。
大浦天主堂の玄関正面、純白に輝くマリア像は、この出来事のあと、その記念碑として、フランスから贈られたもの。
プチジャン神父は今もこの地に眠り、その祭壇では、この「信徒発見の聖母像」が、今日も訪れる人々にやさしく微笑みかけています。



写真協力:ながさきWebマガジン ナガジン  ◆http://www.at-nagasaki.jp/nagazine/


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